『ロケットマン』と考える、誰からも愛されない自分を受容する難しさ

ロケットマン|サカキシンイチロウ|note

 

ロケットマン』がAmazonプライムに入ったと聞いて、改めてもう一度観てみたらやっぱり好きな映画だなあと思ったので、公開当時何度も映画館に通っていたときに途中まで書いていた(そして力尽きた)下書きを書き上げてみることにしました。

 

 

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ロケットマン』を初めて観たとき、しまったこれ友達と観るんじゃなかった、と思った。どんな感想も陳腐になると思って、帰り道うまく喋れなかった。思ったことも感じたこともたくさんあったけど、口にした瞬間から全部映画を矮小化してしまう気がしてこわかった。これが「表現」なんだな~と思った。言語以外の方法で、人の心を動かすってこういうことなんだなあと。

 


『ロケットマン』本予告

 

 

華やかなミュージカル映画なのに、観ている間私はずっとつらかった。同じ監督が類似のテーマで描いた『ボヘミアン・ラプソディ』と、似てるとこもたくさんあったと感じたけど、それよりはるかにつらかった。エルトン・ジョンのこと1ミリも知らなかったし、曲もひとつも聞いたことなかったけど、私はこれをあと何回か観ないといけないと思った。感想が思いつかない。何から話せばいいのかわからない。すごく良い映画だと思ったし、エルトン・ジョンの音楽も好きだと思った、けど、1回目鑑賞後はどうしても言葉が出てこなくて、というか、自分の持ちうる言葉で切り取って小さくまとめてはいけない気がして、しばらく胸でじくじくさせていた。

 

私がこの映画がとにかくつらかったのは、誰からも愛されないという「孤独」だけを描いていたのではなく、「誰からも愛されない状態で、自分を大切にして健康的に生きることは、本当に本当に難しい」というところをえぐるように描いていたからだ。そして、それは私自身に思い当たるところもあって、だからこそつらかった。

 

エルトン・ジョンの半生は、まず両親から全然愛されていないというところから始まる。虐待や暴力はないが、「マジで子供に無関心」という、幼いレジーの心をじわじわと締め付けるシーンが何度も何度もあって、よくここまで描けるなと思うほどキツかった。多分子供のときは気づかなかっただろう、あんな幼い子供が、王立音楽院に通わせてもらってる子供が、自分は親に愛されてないって気づくまで、そしてその状態を「自分は悲しいと思ってる」って自覚するまで、どれだけ傷ついてきただろうと想像する。子供はそんなことわかんないし、主張もできないし、だからこそ庇護下に置かなきゃいけないのに、現実として親に向いてない人というのはいる。

 

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ブルネットで大柄な美人お母さん。女優さんの元のルックスと全然違うらしい

 

さらにいうとエルトンは恋人からもまったく愛されていない日々が続く。ただでさえゲイであることと向き合うのに苦労している彼が、初めて自分を受け入れてくれた人(実際にエルトンはジョン・リードが初体験の相手だったらしい)から全然大事にされていないことを突きつけられ続けるシーンは本当につらい。

 

そして、観てるこっちがわかるのは、エルトンは親に対しても恋人に対しても、何度も「試し行動」をとっていることだ(ちなみに全部弾かれてるので余計つらいんだけど…)。典型的なアダルトチルドレン。親に愛されずに育った子供がどういうトラウマを抱えて、愛情飢餓なまま大人になった人が周囲の人間にどういう態度をとるようになるか、っていうのをびしばし書いていて、エルトンこの映画を自分で監修しながらつらかっただろうな、と思った。客観的に自分の過去を見れるようになるまでにどれほどの時間を要しただろうか。

そしてエルトンは生涯のビジネスパートナーとなるバーニーに対しても試し行動をとってしまうので、バーニーも一度はエルトンから離れていってしまう。そりゃそうだ、誰だってこんな不安定な人に頼られたくないよ、ってわかっちゃう気持ちもあるけど、でも、このひとの人生の難しいところは、「一般的には『無償の愛』をもらってもおかしくない人から愛されてこなかった」ってとこだと思う。子供を愛さない親もそりゃこの世にはいるだろうけど、でも、「子供のことは無条件で愛してしまう」って人の方が多いんじゃないかと思う。世の中には子供が犯罪者だろうと見捨てない親もいるわけで、そこまで極端な例じゃなくとも、子供が悪いことをしたり、見た目が少々かわいくなかったりしても、親はそういうことを気にしなかったりする。でもエルトンは世界中で有名になり大金持ちになってもまったく親から関心を示されないっていう、なかなかの親の元に育ってしまった。大人になる過程で何度も何度も「今なら受け入れてもらえるかも」って淡い期待をもって親と向かい合って、そのたびに冷たく跳ね除けられるのを見るは苦しかった。

恋人のジョン・リードも同様で、最初は愛し合ってたと思うけど、だんだん見るからに愛されなくなっていって、でもエルトンは彼を好きなのですごくしんどかったと思う。親に電話で冷たいことを言われ「誰からも愛されないって言われた…」と呆然としているとき、たしかにエルトンはつらかったんだろうけど、同時に、こんなことを恋人に話すのは”そんなことないよ”ってハグしてほしいから言ってるに決まってるのに、ジョン・リードときたらストレートでエルトンを殴るのでびっくりしてしまった。最悪すぎる男!ガワがリチャード・マッデンだから色男なだけでこうやって書くと最低最悪だな…

 

そしてタロンくん表情の演技がうますぎて、相手の機嫌を伺うときの顔、傷ついているときの作り笑顔、動揺しているときの表情の揺れなど全部絶妙すぎて本当につらくなる…

 

 

1回目観たときはとにかくこれは「孤独と健康」についての物語にしか見えなくて、相当苦しかった。華やかなミュージカル映画としても好きだったけど、ハッピーエンド!!!!!!!!!!!!!って感じでもなかった。ちょうどそのとき『ジョーカー』も観ていたし、当時は坂口杏里ちゃんがゴシップを賑わせていた頃で、いろいろなことが私の中でぐるぐるしていた。

 

 

一時期私はずっと坂口杏里ちゃんのことを考えていたので…

 

親からも恋人からも愛されない状態で、しかもスターになってからは周りに心を許せる人もほぼおらず、そんな状態で自分を認め愛してあげるっていうのがいかに難しいかというのは想像にかたくない。仕方ない部分は大いにあると思った。

私はここが『ボヘミアン・ラプソディー』とは違うところだと思っていて、フレディも孤独に苦しんだスターのひとり(彼もゲイだった)だけど、彼は家族からは愛されていたし、家族のように近い距離のバンドメンバーもいた。バンドが売れる前の青年期からずっと一緒にいるメアリー(元々恋人で、別れてからも近くに家を持ち過ごした)もいた。フレディの場合は、「自分の周りの人はみんなステディな恋人や家族がいるのに、自分には1対1で向き合ってくれる人がいない」ってとこからくる孤独心に苦しんでいたと思うけど、エルトンの場合は「そもそも誰からも愛されていない」という深い深い大問題を抱えていた。

 

この状態が難しいのは、自分の努力ではどうにもできないことだ。「他人に自分を愛してもらう」って、特に苦労せずできる人もいれば、エルトンのように何をどうやってもできない人もいる。音楽の天才で、世界中にファンがいて、何億も稼ぐスターになって、でもそういう努力はエルトンを「愛される人」には形成してくれなかった。親を大事にしたり、冷静に向き合ったり、高価なものをプレゼントしたり、親を何度も許そうとしたりなど、彼なりにやれることはやっているように思ったけど、相手の感情は相手にしかコントロールできないので、その努力が実るとは限らない。実際、あんまり実らなかったようだ。

 

本当は他人からの評価なんてどうでもよくて、自分が自分を認めてあげられれば幸せ!って思えるのが一番なんだろうけど、人間ってそんなに強くないので、他者からの承認が一番手っ取り早く自己肯定感を高める術なんじゃないだろうか…と私は思っている。イギリスがどうなのかは知らんけどアメリカはとにかく大人が子供を褒めまくって自己肯定感を高める教育をすると聞いたことがあるから、そういうふうに育てられなかったエルトンが自分を受容するまでに本当に遠回りした道のり、キツかっただろうな。アルコール依存、薬物依存、セックス依存、買い物依存などさまざまな依存症で自分を痛めつけ麻痺させないととてもじゃないけど誰からも愛されない自分を直視できないようになっていってしまった彼のことを、私は他人事と思えないのであった。誰だってこうなる可能性はあると思うから。

 

人の感想を読んだりして2回目観たときは、これってバーニーとの友情の話でもあるのかとようやく気づいた。いや監修にエルトンとバーニー本人が入っているらしいから、そりゃそうなんだと思うけど、私的にはエルトンの「誰からも愛されなさ」が強烈すぎて(なんならバーニーも愛さない側の人に最初は見えていた)、そこまで目がいかなかった…。

バーニーは「何があってもそばにいてくれる人」ではない。若い頃は恋愛的な意味でバーニーを好きだったエルトンに対し、「君を愛してる、でも…違う愛だ」と答え、それから50年いっしょにいる。複雑な関係だと思う。バーニーが書いた歌詞にエルトンが曲をつけて歌う、それだけの関係ではないはず。エルトンの弱さもすごさもいちばん近くで見ててわかってた人だけど、「恋人」とか「家族」の枠組みには入らないので、無償の愛を注ぐ人ではない(それも私には難しくて、エルトンも「自分の孤独をわかってくれる人」と出会い一度結婚している。けどその人は女性だったため結婚生活がうまくいかなかった。人として好きでも、性愛が伴っていないと特別な関係にはなれないのか…と思ったりした)

でも、本作で一番エルトンを個人として大事にし何度も向き合ったのは間違いなくバーニーだった。セラピーに訪問したときに「自分で立ち直れ」と言って、寄り添わなかった代わりに、歌詞を差し出したバーニー。出会った頃みたいにシンプルに2人と音楽だけがそこにあって、間違いなく再スタートの合図だった。「エルトンが歌うべきことをバーニーが歌詞にする」ってすごく変わった関係だと思うけど、これもひとつの関係性の形だと思うと私にはまぶしかった。バーニー、サンキュー…

ビジネスパートナーではあるけれど、友情があり、ブラザーフッドがある。売れない時代からタッグを組んで、エルトンのスターダムを一緒に駆け上がった思い出もある。エルトンにとっては恋愛的な意味で好きだった人でもあって、そういう気持ちがその後0になったかどうかなんて本人たちにしかわからない。最後の曲、失恋から立ち直る歌なのかもしれないけど、リハビリを終え再度立ち上がるエルトンの新たな門出の歌としてあまりにも美しく晴々としていて素晴らしかった!

 

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ナイスコンビ!

 

まあ結局、エルトンも25年前に生涯の夫となる人に出会って真実の愛を知り、子供も2人います!ってので締めくくられていて、いや、素晴らしいことではある、あるのわかってるんだけど、「結局他人がパートナーとなったことで孤独を埋められたのかあ〜〜〜」…と思った。欧米のカップル文化すごいなあとも思うし、日本でも毒親育ちとかの人のエッセイって「そんな私も今では優しいパートナーに恵まれ…」的な描かれ方をしているのを見ることが多く、なんかまあ、そうか…って思う。

自分が自分の力だけで自分を愛せるようになる方法、なんてこの世にあるんだろうか。他人と支え合って生きていく方が生きやすいのなんて知ってるけど、でもどうしようもできなくない?って思うこと、生きてて結構ある。他人に対して思うこともあるし、自分に対して思うときもある。難しいなあ。他者と自分。愛されること、受容されること。社会の中に自分の居場所があると信じられること。なんだかな。

 

まあそんなかんじで、自分がここ数年向き合っているイシューと重なることが多くあり、そういう意味でも特別な映画体験でした。

エンドロールが素晴らしすぎて!劇中の衣装とエルトン本人の写真を並べる演出、エルトンファンも映画ファンも楽しくなれて最高。これボヘミアン・ラプソディでもやってほしかった…!笑 一番の見所はオチ的な感じで最後に現れるエルトン幼少期と子役ちゃんが並べてある写真なんだけど、似すぎて大爆笑なのでぜひ観てみてください。辛辣なほど孤独な話だけど、最後のこの写真でみんなクスリと笑っちゃうような、秀逸な終わり方。

子役が2人ともとっても上手く、子役時代を上手に描けてたからこそエルトンが生涯に渡って苦しむアダルトチルドレンなとこがよく描けていたと思う。最後に大人エルトンが幼少期エルトンをハグするシーンがあって、そこがカタルシスだった。自分で自分を認めてあげられるようになるまで、を、こういう形で表現するのかあと思った。誰からも愛されず寂しかった自分、今も自分の心の中で「ハグして」と訴えてくる小さな男の子を、自分が受け入れてあけることで、ようやく自分も今の自分を認めてあげられる、みたいな。

ハンサムなプロデューサーのレイやバーニーも子役出身の役者さんとのことで、なんかそういう、音楽と映画を作る人たちの層の厚さを感じられるというか、この映画製作に参加したいろんな人にとってキャリアのターニングポイントになるような作品だったんじゃないかなあと思えるところも好きでした。

 

 

 

 

余談だけど、映画で観たときとアマプラで字幕が変わっているようで(そんなことあるんだね)、自分的にすごく好きだったニュアンスがいくつか変わってしまっていたのが悲しい…英語がわかればな。

 あと喧嘩したあと「ごめん」と謝るエルトンに”I know.”というバーニー、映画館では「わかってる」だったのがアマプラだと「ああ」になってて、これも「わかってる」のほうが大事なニュアンスだったんじゃないかなー…と思ったりしている。

 

史実的なことは町山さんのこの記事で学んだよ。エルトンとバーニーの関係性についても書いてある…

miyearnzzlabo.com

 

これからも何度も観たい大好きな映画です。

 

https://twitter.com/aonticxx

 

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