圧巻の読書体験 『聖なるズー』/濱野ちひろ

 面白すぎて泣きながら読みました、『聖なるズー』!!!!!

 

聖なるズー (集英社学芸単行本)

聖なるズー (集英社学芸単行本)

 

 

2019年・2020年のブロガーさんの「今年読んでよかった本」エントリにたくさん入っているのを見かけていて、とってもとっても気になったので、ひっさしぶりにハードカバーの本を買いました。

あまりにもおもしろすぎて、1700円の価値ありすぎて、読み終わった瞬間にいろんな人に、「この本読んだ??読んで!!」って連絡しまくった。人生であと何度こんな読書体験ができるだろうと思うほど、心を揺さぶられ、考えさせられ、知的好奇心を刺激され、人間や世界についての見方を変えてくれる、そんな本でした。

 

 

あらすじ。

衝撃の読書体験! SNS、ネットで話題沸騰!! 2019年 第17回 開高健ノンフィクション賞受賞作。「2020年Yahoo!ニュース 本屋大賞 ノンフィクション本大賞」「第19回 新潮ドキュメント賞」「第42回 講談社 本田靖春ノンフィクション賞」「第51回 大宅壮一ノンフィクション賞」各賞ノミネート!
犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」。性暴力に苦しんだ経験を持つ著者は、彼らと寝食をともにしながら、人間にとって愛とは何か、暴力とは何か、考察を重ねる。そして、戸惑いつつ、希望のかけらを見出していく──。

 

最初は結構スリリングな、どちらかというとゴシップ誌を読むようなおもしろさで読み進めてしまうんだけど、事象そのものに対する窃視の欲望もありつつ、非常に両義的な問いかけが何回も何回も出てくるので、そのたびに、自分の今持っている価値観と照らし合わせたり、新たな視点に眼から鱗だったり、学術的な面白さにわくわくしてくる。

愛とは何か?を探す濱野さんの旅路は、途中までの大きなテーマは「対等とは何か?」という問いだった。言い換えると「合意とは何か?」ともいえる。動物性愛について人が議論するときの大きな争点は「合意がとれたといえるかどうか」。濱野さん自身が酷いDVサバイバーということもあり、「人間同士だからといって合意がとれるとは限らない」というのを実感として知っているからこそ、彼女は真摯に踏み込む。言葉が通じる者同士ですら合意はとれないのに、どうして言葉もなく合意がとれたといえるの?

 

それに対するズーの人たちの、彼らなりの誠意もさまざまな切り口から知ることができる。食欲や排泄欲はわかるのに、性欲だけわからないほうが変でしょう?

「人間同士であっても子供とのセックスは違法なのと何が違うのか」「動物を食べることの同意は問わないのにセックスの同意が論点になるのはなぜか」「LGBTのように、動物性愛は先天的なのか後天的なのか」など、似た論点のあらゆるプロコンと比較しながら考察を重ねていくのは、競技ディベートみたいでおもしろかった。

 

私は学生時代ちょっとだけ競技ディベートをかじっていたことがある。「大麻は合法化すべきか」「死刑は廃止すべきか」のようなよくある議題のひとつに「獣姦は禁止すべきか」というものがあった。

主に動物の権利VS人間の支配の範囲 みたいな争点になるのだが、必ずといっていいほど「食べるのはOKでなぜセックスはNG?」という反論が出る。あとは「性嗜好は生まれつきのものであって後天的に変えられるものではない。他人を害さない限りは個人個人の性嗜好は守られるべき」とか。反対側の人は、「たしかに現状人間は動物を殺して食べたりしてるが、むやみやたらに殺さないなどの規制はあるし必要で、なんでも好き勝手にしていいという話ではない」「人間同士であっても合意のないセックスはそもそも違法。動物とは合意をとる手段がないのでレイプである」みたいな武器で反対する。たしかこんなかんじだった。

あのときに調べていたこと、考えていたことがぶわわわーって脳みそに蘇った。あのとき、その議題でディベートをしていた人の中で「動物の方から誘ってくるからOK」という理論を出した人は記憶にないし、そんなこと言っても審判は「根拠がない意見」と言って採用しなかったと思う。けど、この本をじっくり読めば、いやでもそう思ってくるようになる。もしかして、あの家のペットも、まさかだけど、そのまさかが。

 

さらにいうと私は学生時代、濱野さんとほぼ同じ学部学科的なところに通っていた。セクシュアリティ研究の先生も、文化人類学の先生も、ジェンダー法文化史の先生もいた。私は『聖なるズー』を、大学のときの学科の先生全員に読んでもらって、全員の専門領域の視点から意見がほしいと思った。いま大学にいたら絶対にそうするのに!!!

もっとちゃんと授業をうけていればよかったと思うところも、あー!これ大学の講義で聞いたやつだ!!と思うところも山ほどあって、大学を卒業してから眠っていた私の中の研究者の魂が燃えるのを感じた。ゼミの課題図書にして全員で朝まで議論したい…。

そういう、研究欲というか、「学びたい」「知りたい」という気持ちをたくさん刺激してくれるところも本当に面白かった。濱野さんが大学院に進んだ理由が「性暴力が、いまも私の中で大きい重力を持っている。なぜ私に起きたか、自分の言葉で説明できるようにならなければ変われないと思った。アカデミックな思考は理性を助けてくれる。それを求めてセクシュアリティーの研究をしようと決めた」*1なのも、すごくなるほどと思った。事象を学術的に学び直し、自分の言葉で説明できるようになることが自分を助けるということを、私は経験として共感できる。

 

濱野さんの丁寧なフィールドワークとインタビューの積み重ねは、セクシュアリティに限らず、「普通じゃない」人生をひっそりと生きる人の大きな支えになるだろうと思った。誰しも、人には言えないことを抱えながら、普通なふりをして生きているよなあ、って思うことが私にはたくさんある。ズーのひとたちが抱えている「人と同じように生きられない怖さ、自分は静かに生きていたいだけなのにそれを他人から暴かれ糾弾されることにずっと怯えて暮らすことへの恐怖」は、人生の重荷となって私たちにのしかかる。

私は大学生のとき、社会のあらゆる不条理に怒っていたが、それ以上に、「なんでみんなはできることが私にはできないんだろう」と、自分に対して物凄く怒っていた。そしてその気持ちは今もあり、いつもそのことがずっとつらい。

『聖なるズー』が後半になるにつれて、私は、濱野さんの知的な語りと研究の根底にはずっと「怒り」がぐつぐつ沸いていたと気づかされて、最後にはボロボロに泣いていた。いわゆる”泣ける話”というジャンルの本ではない。でも、あまりにも心を揺さぶられた。人生も、愛も、セックスも、どうしてこんなに曖昧で、複雑で、分かり合えなくて、苦しいのだろう。あらゆる悲しいこと、自分ではどうにもできないことがこの世には多すぎる上に、ほとんどの場合、そういった苦しみは最終的には一人で背負って生きていかないといけない。本当に大事なことは自分で決めなくてはいけないし、人と違う部分は人と共有できない。

濱野さんが苦しんだ過去、怒っていること、そしてそれに向き合うと決めた覚悟。彼女の旅路に賛同して、社会的地位を奪いかねない大いなる秘密を共有してくれたズーのひとたち。私はこの本を読みながら、私に見えている世界なんで本当にちっぽけで、世界はこんなにも多面的で、自分の手の届かないところに大きな事実や感情が轟いていることに跪きたくなった。愛もセックスも生きることも、つらく傷つくことばかりだ。その一方で、それを通じてしか得られない幸福や関係性があることもこの本は肯定している。

 

これからの人生で、自分のあり方、人生の壁、愛やセクシュアリティ、人との関係性に悩んだとき、きっとこの本が助けてくれると思った。何度も読み返したいし、世界を信じたい自分も、信じられない自分も、同時に私の中に存在しても良いということを言語化してもらえてとても心強く思った。人生は複雑で、普通に生きられないとしても、自分の全部を諦める必要はないってこと。何かを愛することは、祈りに近い実践なのかもと思う。真摯な眼差しに心臓を貫かれるような、圧巻の読書体験でした。

 

 

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