推しを持たぬ私が『推し、燃ゆ』を読みまして

”推し”文化がダルくなってきた(推しのために浪費してナンボ!みたいな)頃にこんなタイトルの本が出てきて、なんとなーく避けていたのだが、芥川賞をとったとのことで俄然読みたくなって手に取りました。短いのでするする読めた。

 

文藝 2020年秋季号

文藝 2020年秋季号

  • 発売日: 2020/07/07
  • メディア: 雑誌
 

文藝で読んだ。

 

 

※超ネタバレあり

 

この本、”推し”文化を知らない年上の人たちは、今の若者はこんな文化に浸かっているのかあ〜と興味深いだろうし、”推し”文化のど真ん中にいる人は自分語りしたくてたまらなくなる装置だろうしで、罪深いテーマ設定だなと思います。笑

そして私はもちろん後者目線で読みました。

 

「推しが燃えた」というキャッチーな書き出しから始まるのですが、この本の中でおきることは、推しが炎上して、ざわついて、なんやかんやで芸能界を引退するという、ただそれだけの話で、かなりありふれた内容です。

読みはじめて、本題はこっちだったのか〜と思ったのが、主人公の”あたし”ことあかりちゃんが、「生きづらい人」という設定でした。はっきりと病名は出てきませんがいわゆる発達障害なんだろうな、と抉るように伝えてくる細かな描写がえぐくて、脂汗かきながら読みました。

推しに起きたことと、あかりちゃんに起きたこと。この2つが最後まで交わることはなく、あかりちゃんは社会からはじき出されたまんまで終わるのがリアルで…。あかりちゃんのように、何もできないけど、”推し”について語る文章力と観察眼がすごくてTwitterのフォロワー数やはてなブログ購読者数がやたら多い人って、わりとリアルにいそうな感じで絶妙。ただ、可視化されている、そういう「文章がうまいオタク」って、自己表現がうまいから可視化されているのであって、世の中、どんだけ推しを推しまくっていても、特に誰からも注目されてない人の方が大多数だとも思う。普通、オタクは消費者なので、生産側と同じ土俵には立たないので。

あかりちゃんは純粋に推してて、欲も見栄もない。周りのオタクの言動にも興味がなく、ただただ推してて、それに文字通り命をかけてる。もう少し実生活とバランスとってうまくやれれば…と読者の私は思うのだが、かの上野千鶴子先生も仰ってました、「がんばったら報われると思えている時点ですでに環境のおかげ」なのであった。*1

 

ここから自分語りも入っていきますが…

あかりちゃんの飲食店バイトの描写が私に脂汗だったのは、大学生のとき飲食店でバイトしてた私と重なりすぎたからなのでした。私は「臨機応変な対応」が本当に苦手で(今でも苦手です)、教えてもらったことはすぐ忘れるし、愛嬌があるタイプでもないので「笑顔、笑顔」って言われるのもキツかったな…みたいな…。気が利かないタイプの人は愛嬌が備わってないとじわじわ周囲の人から嫌われ始めるというのを肌で感じていたので、本当はヘラヘラしてバカっぽく振る舞うのがいやなくせに、2択でどっちをとるかをせまられて、結局頭悪いのは自力ではなおせないから、処世術として愛嬌を選択せざるをえなかったのも、すんごい嫌でした。

私の通ってた大学はど田舎だったので、飲食店くらいしか学生のできるバイトはなく、そして大学生だった私は、飲食バイトという「誰でもできること」ができない、ということについてあんまりちゃんと考えたことがありませんでした。大学のクラスでははきはきしたキャラで通ってるのに、バイトに行くとバカキャラにジョブチェンジしなきゃいけないのはなんでなんだろう、みたいな。

 

あかりちゃんがバイト中に注意されてることのしんどさは私は体感としてかなり共感できて、ただあかりちゃんのように「欠勤の連絡を数日完全に忘れる」まではなかったなー…とも思って、あかりちゃんの置かれてる状況の深刻さもじわじわ伝わってきた。

あかりちゃんのような生きづらさを抱えている人はどうすればいいのか、ということも考えながら読んだし、本書の中では回答が用意されていない。あかりちゃんは勉強についていけず高校を中退し、就職活動のやり方もよくわからなくて放置して、つまりきちんと生きていく方法をよくわからないまま生きてる人なので、「生きていけなくなったら死ぬ」みたいなことしか出てこない。ふてくされてるのではなく、本当に筋道がたてられないんだと思う。見通しをたてられない状況って人生でいちばんきつい。

推しを懸命に推すことだけはできるのに、友人のように「推しとつながる」みたいなラッキーチャンスも彼女にはこない。なんなら、推しがファンを殴った理由さえ彼女にはわからないままで、彼女の”背骨”は推しなのに、推しと彼女にはなんのつながりもないままだ。

けど宇佐見さんは、あかりちゃんに対して何の救いもないまま終わらせようとしなくて、推しを推した時間と熱量が今も彼女の中にあって、それが彼女の今後の生きる糧になる可能性を残したので、かなり考えさせられる終わりだった。彼女は推しを推しすぎて人生が破滅していったタイプではなく、もともと滅茶苦茶だった彼女の生活をなんとか成立させていたのが「推しを推したい」というエネルギーだったのに、その推しが芸能界をやめてしまったので、今後あかりちゃんの人生を立て直せるものはなんにもなくなってしまったように思える。でも、そうかもしれないけど、そうじゃないかも、っていうニュアンスを私は感じた。推したことが自分の人生と重なるなんて自己満足って思う人もいるかもしれないけど…でもたしかに、あかりちゃんのものでしかないあかりちゃんの肉体や衝動に、推しの気配は0ではないと感じたのであった。

 

とはいえ、彼女には絶対何かしらのサポートが必要なので、どうにか社会と繋がってほしいと願わずにはいられないのであった。私は無力であった。

 

私はあかりちゃんみたいに「普通にできない」部分も多数もってるけど、でも、どうにか「普通にできる」ことをかき集めて綱渡りみたいな人生を歩んできてると自覚している。ラッキーだっただけだと思うし、この先、何か1個重大な欠落によって、一気に転がり落ちるかもって不安は常にある。そしてそういう生き方が、精神を蝕むこともよくわかるので、他人事とは思えないのであった。

生きるって、難しい………

 

ちなみに私はあかりちゃんのように誰か一人の人間を推したことはありません。

オタクではあるのだが、作品が好きで何回も舞台を見るということはあっても、「誰かひとりの人を猛烈に好きで全部をつぎ込む」的な推し活はしたことないので、その現場にしかない空気感や切実さみたいなものは実感としてはわからないけど、近い庭にいるのでなんとなく想像できる…みたいな感じ。

もう何年か前になるけど、リアルタイムで追ってた舞台の出演者のひとりが彼女との写真が流出して、しれっと舞台降板になったときに、私は生まれて初めて「2.5次元舞台見に行ってる人って、作品ファンだけじゃなくて、俳優単体のファンもいるんだ!!!!!」ということを知ったのでした。2.5次元舞台なんて、原作知らない人が見るもんじゃないと思ってた。作品ファンは彼の見た目のそっくりさや演技のうまさが好きだったので、「降板なんてしなくていいのに…」「俳優のプライベートなんてどうでもよくない??」と言ってたのに(私はそう思っていた)、一方で俳優ファンは「私たちがどんだけ彼に金積んだと思ってるんだ」「あの舞台しか見てないやつらは黙ってろ」的な感じで怒ってたので、「え!!!原作を好きで見てる人の方が”下”ってことになってんの!?!?!」とかなり驚いた思い出があります。

今なら、なんとなくあのとき彼のファンたちが言ってたこともわかる気がするけど…

 

時は流れ、Twitter学級会ほどこの世で意味のないものはないと悟った私はそういった虚無な争い事から離れて久しいですが、私がおたくをやっているジャンルに関わるすべての人が、健やかに働いてくれることをただただ祈るのみです。

幸せな気持ちになりたいから推してるのであって、推しのことでしんどくなりたくない。その点、あかりちゃんの「閲覧数なんていらない。あたしは推しを、きちんと推せばいい」という言葉はがつんと響きました。

 

書いてあることはよくあるちんまりした芸能ゴシップとオタク女の匿名はてなダイアリーの語りみたいなことなのに、宇佐見さんの圧倒的筆力にぶちのめされた一冊でした。

 

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

 

 

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