おじいちゃんとのお別れ

ここ数週間程で覚悟はしていたつもりだったが、母方の祖父が亡くなった。

 

 

おじい、倒れる

元々祖父はここ数年は認知症で、1年と少し前に祖母ともども施設に入居していた。私や母のことはわからなくなっていたものの、身体は健康で、長生きしそうだなとなんとなく思っていた。

状況が一変したのは4月中旬で、母から「おじいちゃんが転んで頭を打って、一時期は危篤と言われたんだけど、今は落ち着いて小康状態になりました」という連絡がきたのであった。あわてて電話で状況を聞いたら、転んで病院に運ばれたときは頭の中が血でいっぱいで止まらず、「あと24時間くらいだと思うので、ご家族の方を呼んでください」とお医者さんに言われるというガチ寿命宣告があったらしい。

ところが生命力のある私のおじいは自力で血を止め(!?)、翌日にはなんとおしゃべりまでして病院の大部屋に移されたのであった。戦前に生まれた人間の強さよ…(?)

それでも、この連絡が来てからはなんとなくずっと落ち着かず、仕事をしながらもふとおじいのことをが頭に浮かぶと鼻の奥がつんとする日々だった。その日が迫っている、という感覚。ここ数年は数えるほどしか会っていないおじいではあったが、それでも、死は喪失で、喪失は悲しみだった。私の母は、祖父が病院に運ばれてから亡くなるまでの数週間は、いつ夜中に呼び出されても運転できるようにお酒を飲まなかったといっていた。普段、キッチンドリンカーなのに…(笑うところ)

 

祖父の延命治療を、母が断る

祖父は一命をとりとめたものの、転倒して骨折もしていたり、あちこちに手術が必要な状況ではあったようだ。ただ、大掛かりな手術や骨折などの外科手術をするにもベースとなる健康(?)がいるのであって、私の母とそのきょうだい(母の姉、つまり私の伯母)は、今後流動食をするかしないか決めてくださいと言われたようだった。要は、延命治療をするかどうか、という質問だった。

数年前に父方の祖父が入院したときは、配偶者である祖母が元気だったので彼女の判断ですべてが決定したのだが、今回の母方の祖父の場合、配偶者である祖母も軽く認知症が始まってしまっており、祖父もなーんにもエンディングノート的なものを残していなかったため、子供たち(私の母たち)が決定しなければならない状況だった。という状況共有をさらっと言っていたけど、責任感の強い伯母は「こんなことを私が決めないといけないなんてーー!!!」とかなり精神的に消耗してしまったらしい。誰だって神様にはなりたくない、まして自分の親の命の決定権が急に自分にゆだねられたら怖いと思う。

その後結局どうしたかを母は私に電話してこなかった。そういうことを子供には共有しない人だ。母と伯母が二人で納得して決めたことならだれも何も言わないに決まっていたが、それでも、こういう判断を、しかも短期間で決定しなければいけない状況で、自分たちでそれを決定するってすごいことだなあとしみじみ思った。誰にも相談しないって、要は、決めたことをただ背負うということだと思う。法治国家に生きていると、自分が誰かの命の決定権をもつことなんてなくて、法が決めるのが当たり前と思っていたけど、本当は誰しもが人生で1~2回くらい、人の命の期限を決める瞬間があるのかもしれない。そういうことに人生で初めて気づいた。

 

お別れの日は突然に

もう少しでGW突入だ!という夜に母から、先ほどおじいちゃんの容体が急変し亡くなりました、というLINEがきた。連絡がきたときは外にいて、家に帰ってから母と少しだけ会話をしたがちょうど病院で色々手続きをしていたり、精神的な疲労もあってかかなり言葉少なだった。会社に忌引連絡をいれ、翌日の飛行機のチケットをとって、早めに準備して寝なくてはと思いながらもあんまり何も手につかなかった。なぜかふと、HIKAKINも最近おじいちゃん亡くなってたな…と急に思い出して、Youtubeで動画を見た。私はたぶん人生で初めてHIKAKINの動画を見たかもしれない(嫌いとかじゃなく単に通ってこなかった)。


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ああ~悲しい~と泣くHIKAKINを見て、私も涙がでた。高齢の祖父が亡くなるというのは、ある程度もう仕方ないことでもあり、人間ならみんな通る道で、辛くて悲しくて仕方ないということではなかったが、それでも素朴に悲しくて、まさにここでHIKAKINやSEIKINがしみじみ語るような「田舎のおじいちゃんが亡くなって悲しい」「ほんとにかっこいいおじいちゃんだったよねえ」っていうのとすんごい近い感情をもっていたので、この世に同じような経験をして同じような気持ちになっている同世代の人がいる、ということで妙に心を落ち着かせることができた。

 

コロナ禍でのお葬式

コロナ禍なので、通夜と葬式から初七日までを全部1日でやってしまうスタイルだった。最近流行ってるんだって。

施設に入居している祖母を当日の朝に迎えに行き、一緒に斎場まで向かった。もう行きの車の中から祖母が泣くので、それを見るのが一番胸が痛かったかもしれない。記憶にあるよりもずっと小さくなっていたおばあちゃんの、つるつるできれいな手を握って歩いた。幼いころはおばあちゃんが私の手を引いて歩いてくれていたはずで、いつの間にか私がおばあちゃんの歩く速度に合わせて手をつないで歩くようになっていた。切ない気もするけど、年を取る、老いるってこういうことだよなぁとしみじみ思う。コロナの影響もあり祖母の住む施設に行っても面会時間15分しか会えないので、1日中祖母と一緒にいられたのはよかった。こういう風に、長い1日をおばあちゃんと過ごすのは、もう人生で最後の一日なのかもしれなかった。

家族葬で、孫全員、ひ孫の一部も集まることができて、みんなで見送ることができてよかった。別に誰も泣く予定はなく、どちらかというと、大往生~!という感じだったのだが、おばあちゃんが出棺前に「私がワガママで迷惑かけたわね…」などと言ってしくしく泣くので、一族全員もらい泣き。笑

涙は流したものの、良いお別れだったと思う。

遺影を見ながら、母も祖母も、私のいとこたちも、おじいちゃんはかっこよかったと口々に言っていたのが印象的だった。たしかに、昭和の人にしては背が高く、鼻が高くハンサムな顔立ちのおじいちゃんだった。優しくて、自立していて、いつもおもしろいことを言っていた社交的なおじい。おじいちゃんのしゃべる筑豊弁、全部なつかしい、忘れないよ。

 

葬式も焼骨も、生きてる人のための儀式なんだな…

ひととおりお葬式が終わり、火葬場へ。焼骨の前も礼拝と最後の挨拶をして、棺を火葬炉へ運ぶ。そのときスタッフの方に、「焼骨開始ボタン(?)をスタッフが押しても家族が押してもいいけどどうしますか?」って聞かれて、叔母が「いや…お願いします(笑)」って言ってたのが、なんか、まぁそうだよなって思った。モリのアサガオを思い出す私であった(思い出すな)

1時間半ほど、控室で親族でダラダラしゃべり、さっそくからあげなどを食べた。昼間は精進料理しか食べなかったので、肉がうまかった。

そうして、骨になったおじいちゃんと対面。焼骨に立ち会うのは人生で2回目だったが、毎回、その凄みに感嘆する。頭部からだんだん足に向かって体の部位を1~2個ずつ、親族1人1人が箸で拾って壺に入れていくという作業は、まさに「儀式」という感じがして、頭の中にritualという単語が浮かんだ。全世界、未開の部族とかも含めて、どんな民族や宗教の人も、人が死んだら何かしら弔いをするのではないかと思った。いるのかな、この世には、人が死んだらその瞬間にモノとして扱うみたいな種族。世界のどこかにはいそうな気もするけど、おじいの骨を壺に納めながら、それでも私は、こうやってゆっくり骨を拾うという作業が大事なんだということをひしひしと感じていた。手厚く弔うっていうのを形にしたのがこの作業で、こういうのを弔いと呼ぶんだなぁという原始的な体感。この人のことが大切だったなぁという気持ちにしてくれて、死と向き合うことができる。

夜中に祖父を看取ってくれた当直のお医者さんから、体を洗ってくれた看護師さん、死化粧してくれた葬儀屋の人、火葬場で働いている方など、1人の死に何人もの方が関わっているのをこの目で見て、本当に頭が下がるな~と1日に何度も思った。普段あんまり見ることも意識することもないけど、人が死ぬと結構やらなきゃいけないことがあり、それを親族の代わりにやってくれる職業の方がこの世にはたくさんいる。普段あまり目にすることのない職務の方たちなので、単純に興味深かったし、静かに感謝の気持ちだった。

 

そして思考はあさっての方向へ…

こうして、おじいちゃんとお別れしてきました。

祖父の死という機会を通して久々に親族で集合し、普段東京で一人暮らししている自分がまったく考えていないことを色々考えた。いつか来る自分の両親の介護や死について、少しずつでも準備や勉強をしていかなきゃいけないんだなぁと思ったし、もちろん悲しみもあるけど、「人が死ぬときに必要な手続き」の話を前より聞くようになり、私も年をとってきているのを感じる。

母が祖父にしたことを、いつか私が両親にできるのだろうか。ていうか、するの?何もわからん。そして、「何もわからん」って言っていいのは何歳までなんだろう。

人は皆老いる。いつかは死ぬ。そして、私の家の場合は基本的に親族の仲も良好なので、介護や死の場面では配偶者や子供がその世話をすることになるでしょう。ひとりで地元を離れ、東京で独身の私は一体どのタイミングでこのコミュニティに入るのか?自問自答は尽きなかった。

 

他にも色々、仲の悪い親族との関係性に心かき乱されたり、家族からの重い期待にどこまで反応すべきなのかという問答で、東京に戻ってきてからも心に雑念ばかり生まれあまり集中できていない。仕事が始まったらまた東京モードの私に戻るんだろうなあ。東京と地元で、ますます二重人格が加速している。どっちも私だけど、どうせうまく統合できないなら、スイッチの切り替えくらいは素早くできるようになりたいね。

 

 

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